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What? なんだろう?

“La mia quarantena

—わたしの隔離期間” とは?

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『La mia quarantena/わたしの隔離期間』は大道寺梨乃の初の映像作品であり、「日記映画」という形態をとる。日記映画とは「個人映画・実験映画の展開のなかから派生した、プライヴェートな日常を日記のように綴った映画を指す」ものであり「作家の個人的内面と映像の結びつきが強調されており、作家の感情の移ろいを反映させた映像による詩や、映像による私小説と呼べるようなものが多い」と定義されている。(ウェブマガジンartscaoe内現代美術用語辞典ver.2.0より)

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Statement 

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去年2020年の3月からイタリアで始まったquarantena(隔離期間・英語のlock downと同義だが本来は40日間という意味で、ペストが流行した時代に行われた40日間の隔離期間が語源となっている)から現在に至るまでの約1年間の日常の映像で構成された本作品の中では、時間は本来と逆にさかのぼり、現在から隔離期間が始まった2020年の3月へと進んで行く。映像中に物語と言えるものは特になく、大道寺自身や3歳の娘の朝や夫のエウジェニオや猫のポンズといった家族が主な登場人物となり、実際の日常の中から切り取られた映像と、隔離期間から始めた詩や文章の朗読、娘の朝に絵本を読む様子などが映し出されていく。

 

この映画を作ろうと思ったきっかけはいくつかあるが、やはり大きなきっかけは新型コロナウィルスの影響で隔離期間が始まり、現在に至るまでその影響を多大に受けながらイタリアで生活していること、また、その影響の一つとしてイタリアで起こっている劇場の閉鎖や野外パフォーマンスの禁止や誰かと「集まること」自体が規制されている今のこの状況によるものが大きい。パフォーマンス作品を主に作っている自分がこの状況下でできる創作活動とはなんだろう?さらに可能であれば、毎日少しずつ、娘と過ごしたり生活費のための仕事をしたりする合間に、生活の中で「こうありたい自分」も「こうなってしまう自分」も分け隔てなく受け入れることができるような、そんな創作活動とは?と考えていたときに友人がたまたまInstagramにあげていた「日記映画」という言葉に捕らえられたのだった。

「日記映画」という言葉はわたし自身には馴染みのあるもので、なぜなら日本で日記映画を作り、提唱している映像作家であり詩人の鈴木志郎康先生が大学の恩師であり、彼の詩を隔離期間中に朗読したことからこのプロジェクトが始まっているからだ。大学の頃に彼から教わった「この私たちの日常は歴史には残らない」ということ、ではその歴史には残らないこの日常から作品を作るとはどういうことなのか?そして身体や移動の自由を奪われ時に自分から放出されるように湧き出てくる、この何かを作りたいという欲求は何なのか。そういったこととどこまでも付き合いたくてこのプロジェクトを始めた。

 

5年前にイタリアに来てから、長年暮らした日本や日本語でのコミュニケーション、東京の街、東京にいる家族や友人たちと離れて一人になり、今でもまだどこか自分自身と長い旅をしているような気持ちになることがある。また、娘が3年前に生まれたことで、この最先端であるはずの2020年代の現在が彼女にとって記憶もおぼろげな古く懐かしい幼少時代になっていくことを強く意識して、この世界を記録したいとも思った。Siriやアレクサという名前は彼女にとって小さい頃に遊んでいた懐かしいおもちゃの中に住んでいた小人のような、そういうものになっていくのだろうなと思う。

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明日、来週、1ヶ月後、1年後、100年後を生きる未来の人たちが、この映画を見たらどう思うだろう?南ヨーロッパに住むアジア系女性が残したパンデミックの記録だが、それはおどろくほどどうでもいい日々の記録や3歳の娘の語録で構成されている。近所をうろつき回っている猫が天窓にやってきたことや、夏の日のドライブや、新年の花火や、小旅行中の夫婦の口喧嘩などだ。誰もいない外出禁止令の出た夜の街で交わされる電飾たちのお喋りや、街中のみんなに均等に降りかかる12時を告げる鐘の音、家族が寝静まった家でやけに幅をきかせる時計の秒針、そういうもので構成されている。この街にやってきたばかりの頃あるリトアニア人の男性と日本語のオノマトペについて話していて(ポロポロ、キラキラ、イライラといった擬音語のこと)「日本語っていうのは随分primitivo(原始的)だね」と言われた。それを聞いた夫の上司である演出家のイタリア人女性が「それはそうじゃなくて、futuristico(未来的)なのよ」と言った。それはどちらでもいいと私は思ったのだが、この日記映画がそのようなものになればいいと思う。

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